一方、子どもには伸び伸びと育ってもらいたいと、自由を宣言している親もいる。この考えはすばらしいのだが、その根底には自分が子どもの頃、親に勉強を強要され泣く泣く従ってきた経験がある。しかもそれは、自分が親になった今になっても決してよかったと思ってない。「強要される勉強は百害あって一利なし、トラウマとなって心の闇を作ってしまい、人を不幸にする」という観念だ。だから子供には自由にやらせたいと思っている。しかし、この考えを持った親で、本当に子供に自由にやらせている人をまだ見たことがない。実は、子供を自由に育てることをモットーとしている親でも、細かいところでは、全く子供を自由にさせてないのだ。なぜなら、「自由に」という概念には制約がある。要するに、「親が考えている自由度の範疇で」という話なのだ。限りなく自由ではない。ある程度の範囲を親が指定しているため、そこからはみ出ると、鳥を追うように範囲内に入れようとする。傍から見ていると、ここに矛盾が生じているわけだが、親本人達はそれを全くわかっていない。冒頭でも話した通り、親は「親初心者」だから余裕がないのだ。だから、自由にさせると言いながら、自分達の思いの範囲に入れたがる親の姿がここにある。基本的に初心者親は理解していない。子供は「親が思うようには育たない、親のように育つ」ということに。
まあわからんでもないが、日本はくだらん学歴社会であり、先に書いたが、それは就職の際にのみ必ず必要なスペックであるといことは、誰でも知っている。入社したら全くいらないということもだ。しかも親たちは、ハイスペック学歴信仰の中で過ごしてきた。彼らは若い頃、それで苦労した経験もあるからよくわかる。低スペックがどれだけ苦労するかということもわかっている。本当は勉強が嫌いなら、中学卒業してさっさと就職してしまえばよいのだ。しかし、今の日本の学歴社会では惨め思いをするのがわかっている。そして、親にはそれが困難な人生を歩むことの予想がついてしまうから、子供に全く勧めないだけだ。
アニキはいつも後輩に言うのだが、中学卒業で社会に出る人は、手こぎボートで嵐の海に出ていくようなものだと。だから当然親は止めるのであって、「とにかく高校や大学へ行け」というのだ。なぜなら、嵐で死ぬ確率が高いことがわかっているからだ。ここでの「死ぬ」は、挫折して社会からの退場することを意味する。親は人生の先輩だ。その荒波がいかに高いかがわかるから、子供をあえて危険な目に遭わせることをしたくない。中学卒業してミュージシャンになりたいとか、演劇やりたいとか言う子供に対し、徹底的に反対する。しかし、子供にはその意味がよくわからない。親が声を荒げて阻止しようとするその意味が全くわからないから、「親が自分の可能性を潰そうとしている」と被虐的になるのだ。別に親は、子供の可能性を潰しているわけではない。可能性を潰そうとしているのは社会だ。プロのひしめく社会という荒波に、純粋培養した自分の子供では全く刃が立たないだろうと考える。プロ社会における免疫もないから、ころっと簡単にやられてしまうのが見に見えるだけだ。社会という荒波に潰されて、退場させられることを憂いで、親はそう言うのだ。親の言う言葉の意味をよく考えろということだ。
アニキ哲学は言う、「親の話を耳で聴くんじゃない。心で聴け!」だ。