いつも、「勉強しろ!勉強しろ!」とうるさく言う親。彼らは一体何様なのだろうか。毎日欠かさず三食たべさせてくれて、住む家と衣服を与えてくれるのはありがたいのだが、別に好きこのんでこの親に生まれてきたわけではないのにと、思うことも多々あるだろう。親はいつも「子どものため、こどものため」というが、「勉強しろ!」の真意は実は親のためではないかと、思ったりする。今日は、その「親の謎」に迫りたい。
君たちが生まれた時、親は子どもを持つのは初めての経験だ。そして、子どもを持ったなら、育てなければならない。どう、育てようかと試行錯誤してきた。そうだ、その時の親はまさに「親初心者」なのだ。初心者だから、実は何もわかっていない。そして、実際に子育てすると、なかなか思うようにいかないものだから、人に聞いたり、テレビを見たり、本読んだりして勉強する。よいと思えばその通りやってみる。
そんな経験はだれでもするのだが、この行動は2番目だ。実は、まず1番目はなんと言っても自分の経験だ。とは言うものの、親になるのは初めてなのだから、親としての経験ではなく、自分が子どもだったときの経験から親の気持ちを思い起こし、それを実行するのである。しかしながらそこには、独断的な自分の主観しかない。自分は子どもの頃、親からこう育てられたから、「これは同意できる、これは同意できない」と、自己流に判断する。同意できることはそれを再現し、同意できないことはその反対をやる。そうやって、試行錯誤して子育するのだが、これもまたなかなかうまくいかない。しかも、うまくいったかどうかの基準もない。子育てがうまくいくとは、どういう状態を指すのかだれもわからない。犯罪者にならなかったから、子育て成功なんていう時代ではない。何が子育て成功なのか?明確な判断ないわけだから、だれにもわからない。そんなあいまいな状況の中で子供はすくすくと成長する。結局、子育てが成功したかどうかのバロメーターは、最終的に偏差値の高い学校へ入学できたかどうかだけで決まってしまう。それが今の日本の実情だろう。
周囲の反応もそうだ。偏差値の高い高校へ合格したら、「どうやって子育てしたのか?」と、賞賛されることになる。だから余計に、その子育ては間違っていなかったのだと、自信すらついてしまうのだ。実際、当の子供本人はよいと思ってないこともあるのだが、そんなことは周囲の賞賛の影に、どこかへ飛んでいってしまう。子どもを偏差値の高い学校へ入れた親は、他の親からアドバイスを求められるから、やはり自分の子育ては成功で、やり方は間違ってないと確信を持つ。子育て成功者として、いろんな人にアドバイスすることになる。「あの塾がいい」だとか、「勉強習慣をつけるにはこうした方がいい」だとか、話はこと勉強関することばかりだ。
ここに、子育ての問題がある。