話をもとに戻そう。競争は、「それは実は意味のないことである」と理解することのために与えられている人間の原始機能なのだ。しかし、人間はこの競争という原始機能をコントロールできない。欲望と並んでそれだけ難しい原始機能であり、坊さんのような修行を積んだ人間でもコントロールできないかもしれない。それほどコントロールが難しい競争という原始機能だが、逆にそれを利用するのも人間の機能である。
どういうことかと言うと、競争の最大点の問題点は「負ける」という結果があることだ。競争して常に勝つのであれば、だれもがハッピーであり、問題視することではない。しかし、この競争の問題点は勝者がいて敗者がいることだ。勝ったらうれしいが負けると悔しくなり嫌な気持ちになるように人間は作られている。そう、競争というシチュエーションでは、常に人間のいろんな原始機能にスイッチが入るしくみになっている。だから、競争が好きな奴と嫌いな奴がでてくる。
じゃあどうするか。人間社会において競争は避けられない。どこもかしこも競争だ。自分は競争を避けて生きているのだろうが、いつのまにか競争の中に巻き込まれている。競争は自分がいくら逃げて、向こうからやってくる嫌な自然現象だ。雨雲のように自分の上に雨を降らす。これは大人の社会だけの現象ではなく、子ども社会にも蔓延する。負けた子どもが鬱になったり思い込んだりする。それを見ていた大人達が作ったのが「ゆとり教育」だ。
ゆとり教育で競争がなくなった。学校の中のことまでは知らないが、運動会とかは楽しめなくなった。運動会では徒競走で順位なし。リレーは選抜ではなく全員で走る。見ている親は楽しくない。徒競走は1位になる奴とビリになる奴がいるから見る価値がある。リレーはクラスでトップの奴が走るから盛り上がる。1位になりたいとか、リレーの選手に選ばれたいとか言う気持ちが努力を生むのに、それすらしなくなる。焦点を負け側に合わせて基準を作ろうとするから変になる。 結局、子ども時代に競争を取りあげても、大人になれば競争にどっぷり浸かるのだから、免疫ができずにそれこそヤバイだろ。社会人になったら、いきなり競争の世界に放り込まれるんだから、それこそ精神的なダメージはひどいんじゃないか。結果、ゆとり教育はなくなったよな。みんな気づいたんだよ、これ、アメリカの罠だって。