脳の謎(6/12) ~悟り~
脳の謎(6/12) ~悟り~

脳の謎(6/12) ~悟り~

 では、今日は昨日の続きで、「脳との上下関係」について話そう。この概念は言わば、「脳を従える」ということだ。肉体が常に脳よりも上の地位を確保し、脳に命令できる立場だ。肉体の身分でこんなことが果たしてできるのか? かなり困難だが可能だと言いたい。しかし、これは選ばれた人しか無理じゃないかと、アニキは思う。それは、「悟りを開く」という行為で脳を従わせるのだ。要はものすごい精神力の持ち主だ。

 「悟り」とは、なんだかよくわからない概念だ。偉い坊さんや行者を想像するが、ここでスッキリさせよう。実は、脳を従える観念が「悟り」である。主従関係で、肉体の意思が脳の主人となった状態を「悟りの境地」という。悟りに関しては数多くの考え方があるが、アニキの研究からの「悟り」はまさに脳を従えること。悟りとは、完全に自分の脳を支配した状態を言うのだ。「悟りとは何か」と、永遠のテーマのように語られているが、端的に言えばこういうことだ。偉いお坊さんや行者、宗教の教祖と呼ばれる人達は、自分の脳を支配した人達である。

 悟りを開くために荒行をするが、これは何かというと、脳をねじ伏せる為に、自分の脳と闘っているのだ。脳は、肉体という乗り物に乗っているため、昼間は肉体の意思が主であるから、脳は日常生活では大概の命令には従う。しかし、極端な、例えば肉体や精神が壊れるまでの命令は聞きたくない。なぜなら、壊れてしまっては、脳自体も生きてはゆけないからだ。その一つのカギが自律神経だ。

 自立神経を通して、脳は肉体を操縦しているのだが、この自立神経を麻痺させるような行為には、脳は従いたくないのだ。だから、脳は勝手に肉体の限界点を作っているのだが、修行者はこのストッパーをはずそうとする。滝に打たれるとか、断食とはまさにこの行為だ。脳は普通、肉体を部下と見ているから、脳が決めた限界点は超えてこないと高をくくっているのだ。だから、肉体とその意思(魂)がこの限界点を超えてみせ、脳が「これ以上は無理」という状況において、肉体は脳に「まいった」と言わせるのだ。これが目的だ。だから、肉体の主である意思(魂)が勝つのか、肉体を制御している脳が勝つのかだ。本当にギリギリの闘いだ。肉体の精神力が負ければ、頭がおかしくなるか、死だ。だから、荒行において脳は、あの手この手でやめさせようとする。きわまってくると、脳は幻覚まで見せる。これでもかって感じだ。これがまず、「剛の闘い」だ。

 その後、「柔の闘い」が展開される。脳の限界を力によってねじ伏せようという闘いに勝利すると、次に行者は、脳を暇にする闘いを始める。脳は、常に何かを考えて動いていないと気が済まない。脳は退屈を好まない。脳に何も考えさせない、情報を全く与えないという「柔の闘い」だ。情報がほしくて渇望する脳に、あえて何の情報も入れない。肉体側は何をするかと言えば、無の境地とか呼ばれる何も考えてはいけない心の状態を作りだし、これを継続する。座禅の類いの修行がこれに当たる。何も考えないなんて想像できないかもしれないが、これが脳に取っては「かんべんしてくれ!」である。そして、ここでまた脳に「まいった」と言わせる。

 剛と柔の闘いに勝ったその肉体は、悟りに至り、脳が「すべて仰せのままに」という全面降伏する。悟った人は自分の脳と対話できる。これはどういうことかというと、自分の脳が全宇宙サーバーとつながっていることから、過去の情報や世の中のしくみすべてを得ることができる。脳は肉体の命令に従って、すべての情報を差し出すのだ。そうなると、人類のしくみや宇宙のしくみが生きている時にわかってしまい、人間の創造主が誰で、その考えが何か、までがわかってしまう。悟りの人に、欲望がなく穏やかな性格なのはそのためだ。すべてのしくみがわかってしまったのだから、「いい女がほしい」なんて思わない。自分の使命というものも知り、そしてそれをまっとうしようとするのだ。「すべてわかると何もいらいない」そんな境地に至る。

 そして、悟りを開いた者の死とは、いつでも脳と相談して決めることができるのだ。だから、死をも恐れなくなるのだ。

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