日本人の偉大さ(3/7) ~「道」の精神~
日本人の偉大さ(3/7) ~「道」の精神~

日本人の偉大さ(3/7) ~「道」の精神~

日本人は、元来すべての仕事や作業を“道”(どう)にしてしまう。「道(どう)」じゃないことも「道(どう)」に変えてしまうのだ。つまり、一般的に武道や作法などの「〇〇道」という概念を、他すべての作業や行動にも当てはめて追求してゆく癖がある。そして、その作業の中のひとつひとつ動作にも、心構えや基本動作などを細かく決めて、極めたがる傾向がある。

特に重要なのは「心構え」だ。たかが「お茶くみ」、たかが「コピー」だが、日本人にとっては、されど「お茶くみ」、されど「コピー」なのだ。その「あるべき姿」の究極を求めていく。その作業の「あるべき姿」を考え、意識的に「あるべき姿」を目指すのである。あるべき姿を高めると、そこには「相手の立場になる」とか、「心が伴っていないとダメだ」という概念が芽生える。作業の完璧さだけではなく、そこに「心が伴っていないとダメ」という風になるのだ。それはまさに、あるべき理想の姿を求め、それに向けて精進してゆく姿勢がある。意識が高まると、心と行動の一致を重視し、「作業の乱れは心の乱れ」とまで言い切ってしまう。「あるべき姿=プロの仕事」と置き換え、哲学にする人さえもいる。その境地には際限がなく、初心者には到底たどり着かない高さにまで達する。

例えば、具体的にコピーで説明してゆこう。新入社員が、上司から書類のコピーを頼まれたとする。「道の精神」でこの上司命令を遂行するなら、まず上司に呼ばれた時点から、行動開始となる。よって、その上司への返事からがコピー作業だ。そして、コピー原紙の受け取り方は両手でとか、その作法は細かい。次に受け取ったコピー原紙をまず見て、原紙が曲がって印刷されたものなら、コピーするときには真っ直ぐになるように置くとか、原紙の文字が薄ければ、濃くして印刷するとかだ。原紙にこのようなイレギュラーな問題があれば、自動送り装置は使用しないで、手作業に切り替える。で、要求の部数のコピーが完了したら、コピー機を元の状態に戻すことも重要だ。「次の人が使いやすいように」ということに気を遣う。そして、コピーをきちっと揃え、ホッチキスで左上1cmのところを、角とホッチキスの留め部分が正三角形になるように留める。最後に見直しし、上下逆さまじゃないか、ページが揃っているかなどを確認し、全体をクリップで束ねてから、上司に渡す。上司が不在であれば、上司の机の上に机の向きと平行に書類を置かねばならない。で、部数とコピー完了のメモをつけ、一目でそれとわかるように置く。しかも、書類の内容が外部秘なものであれば、裏にして置く。会社によって多少作法は異なるが、ここまでできればまずは及第点だろう。

コピーといえど、ここまでしなければならない。新人の段階でこれができないと、先輩やお局様から呼ばれ、コピーの心構えを徹底的にたたき込まれる。実は、ここでたたき込まれるのは、作業の細かい作法の部分ではなく、「そのコピーを使う人の気持ちで考えろ」「揃ってないコピーを見たお客がどう思うか」など、考え方の部分での説教だ。まさに、「心がこもっているか」ということを徹底的にたたきこまれる。これが「コピー道」だ。以上はコピーの例だが、「エレベータの乗り方」や「タクシーの乗り方」など、会社での作法はくさるほどある。

実は「道の精神」は会社だけでなく、家庭にも根強く残っている。「そうじ」「洗い物」なんかは、まさに「道」で語られる話だ。そうじの目的はキレイになればいいのだが、掃除のやり方や心構えなどを重視し、掃除中の態度なども厳しく見られる。で、拭き残りなんか見つかると、「なぜ、ここを拭いてないのだ?」と怒られるのではなく、「魂がこもってない」という抽象的な言葉で怒られるのだから、子どもなんかはたまったものじゃない。「どうするのかは自分で考えろ」ということなのだ。できなければ、何度でも「その考え方がダメだ」と怒られることになる。まさに「そうじ道」といいたい。

日本の各家庭にはこの意識が存在し、公の場で子供ができていないと、家庭のしつけ不足となる。日本人の「道の精神」は、知らず知らず幼少よりたたき込まれ続けた結果でもあるのだ。