そんな体たらくなダンナ達の言い分はたくさんある。男が普段外で飲むときは、会社の愚痴かカミさんの愚痴だ。アニキはよく、そういう話をたくさん聞いてきたから、男の言い分は大体わかっている。自分を正当化したその言い分は、男尊女卑の日本の歴史の上に成り立っている。その論拠は、ダンナが給料を稼ぎ家計を支え、奥さんが家庭を守るという固定観念から発している。子どもは親の背を見て育つ。男も女も自分の生まれた環境は似たような境遇だった。親がやってきたことをじっと見てきたから、それが当たり前のように洗脳されてしまっている。だから、家のことは奥さんがやって当たり前という前提が常にあり、そこを見直そうなどとは誰も思わない。最近になって、ダンナが一家の家計を背負うだけの給料を稼げなくなってきたから、この前提がおかしいんじゃないかという風潮が出てきたのだ。前提に目を向けると、おかしいことだらけだ。そこで、目が覚める。まるで魔法が解けたように、今まで何だったんだ?と。
そこに気づいた奥さんは、世の中のしくみの一部がわかったといってもいい。今まで謎のベールに包まれたダンナの行動が、霧が晴れるがごとくわかってくる。そう、全く家庭の問題から目を背けているその姿があらわになるのだ。「心ここにあらず」の生き物が、毎日家に帰ってくるという事実を知ることになる。心のない、魂に心が入ってない男が家にいるという事実だ。
ちょっと話は逸れるが、アニキ哲学における心の概念について触れておきたい。アニキ過去ブログ「脳の謎」「魂の謎」「今世の乗り物を乗りこなせ」などでも話しているが、人間の構成要素は「魂・脳・カラダ」の3つだ。自分とは魂であり、魂がカラダの中になければ生きていない。魂がその生き物を生かしている。脳は魂の命令で動く臓器のひとつだが、別の意思(例えば創造主の意思)でも動くあまのじゃくな臓器だ。カラダはただの魂の入れ物である。その魂を動かす判断基準が心である。心の決定が魂の方向性を決め、それを脳に指令を出してカラダを動かす。そういうメカニズムだ。心がすべてをジャッジする。心が何を考えるかによって魂の性格が決まり、それをカラダが言動や行動などで表現して、その人の人格が決まるのだ。「心」とは、想念であり、形はない。形があるのは魂であり、カラダとともにあるのは魂だ。想念である心は、魂の中に常にあるとは限らない。時には脳の中に、時には別の場所にある。それがアニキ哲学の考え方である。では、話を戻そう。
ならば、一家の主である男の心はどこにあるのか?日本人の男の場合、その心は常に家庭の外にある。男は心を会社に置いてから家に帰ってくるのだ。家に帰ってくるのは抜け殻だ。心の抜けたカラダだけが家に帰る。心が抜けた状態だから、家では深いことは考えたくないのだ。心がないのだから、目や耳から入った情報は直接脳に届いてしまう。心というフィルターを通さないから、脳での処理に困る。脳はあくまでも、事実の把握と過去データとの照合だけで、判断はできないからだ。心がそこになければ判断できないのだ。だから、ややこしい話は嫌いで、当たり障りのないくだらない話しか受け付けない。男が家に帰った時に家庭が平穏でないと、自分でジャッジしなければならないから困る。心は家に持って帰りたくないのだ。ほとんど男は金曜日にも持って帰らない。金曜に持って帰るとしても、それは土曜日のゴルフに持って行くためだけだ。
なぜか男は、心を家に置いておきたくないのだ。そのために、家の中で起っていることがほとんど見えていない。アニキがいつも言う「物事は目で見るな、人の話は耳で聞くな」とは、「物事は心で見ろ、人の話は心で聞け」と言うことなのだ。