だから、昔の人が「天災は神のたたりだ」と言ったのは、あながち間違ってはいないと言えるのだ。ここで誤解してほしくないのは、アニキ哲学においては「神と創造主」は異なる概念だ。話が長くなるから、この話は後日ブログ「神と創造主」で話すことにするが、ここでいいたいのは、天災は創造主が起こしているという事実だ。だから、これをアニキ哲学で言うなら、「天災は創造主のたたりだ」ということだ。そして、「この世に意味のないものはない」という鉄則がある。無駄だと思うものにも必ず意味がある。意味がないと思うのは、あんたにがその意味に気づいてないだけの話であり、本質的には必ず意味がある。この鉄則により、天災にはすべて意味があるということになる。天災は突然に起こる。場所を選ばない。犠牲になる人には何の罪もない。創造主は犠牲者のことをどう思っているんだ?と憤慨もするが、創造主にとっては、「悪いね、犠牲になってもらって」程度で、罪のない犠牲者には次の肉体を与えさえすればそれで丸く収まると思っている節がある。輪廻転生はほぼ永遠に続くから、1回ぐらいの修行の中断などは関係ないということなのだ。
こんなことを話すと、冷たいと思われるかもしれないが、アニキが長年研究してきた天災の謎に対するひとつの結論である。こう考えなければ、天災が起こることに対して納得がいかないからだ。そして、天災が起こる時は、人間の努力の方向が間違っている時に起こる。創造主は、努力の方向を修正するように示しているのだ。ここに気づかないから、また天災を起こす。天災だけとは限らない。エボラなどの謎の対処不能の病気かもしれない。飛行機などの大事故かもしれない。優秀な人間がいくら束になっても、予知は不可能だ。予知したとしても、それは決して当たらない。創造主の目的は、天災を予知してほしくて起こしているんじゃないからだ。科学が進歩して予知できる世の中になれば、創造主は予知できない何かをまた引き起こすだけである。まるでイタチごっこなのだ。
だから、天災が起こるそのこと自体が問題なのではない。問題は、「なんで今、起こるのか?」なのだ。「なぜ今じゃなきゃいけないのか?」ここを考えなければならない。創造主は、「今起こす必要がある」と考え、それを実行しているだけだ。だから、天災が起こった時、世界のどこかで、創造主の意図に逆らう何かが起こっていると考えるべきなのだ。
また、好みの話からだいぶずれてしまったが、許してくれ。アニキブログは好きなことを書いているから話があっちこっちに飛ぶ。要するに、好みが分かれるというのは当たり前でよいことであり、自然なのである。好みがあるから、人間は頭を使ってここまで進化してきた。これが創造主の狙い通りであり、これからも好みを与えられて人間は生まれ続けるだろう。ということだから、自分の好みには自信を持てばよい。他人に合わせる必要は全くない。それは創造主の意図に逆らうことになるから、何一ついいことはない。つまり、自分の好みは自然にできあがった個性であり、それを素直に受け入れればよいのだ。ブ男が好きならそれでよい。隠す必要は全くない。ブ男を受け入れ生きている男は魂レベルが高いから、一緒にいるだけで気持ちが温かくなるはずだ。
「好みにうるさい性格」は、人間として当然の機能であり、こいつをどう使うかが人生の鍵となる。自分の好みに正直に生きることが、創造主の意図するところであり、ただそれだけで運のよい人生を歩めるはずだ。