つまり、人間に仕掛けられているしくみに耳を傾ける必要があるということだ。そこには必ず規則性があり、偶然で起こったことは単なる偶然ではなく、なんらかの法則に基づいて働いていると考える習慣を付ける。例えば、友達と横に並んで歩いている時、自分の頭にボールが当たったとしよう。それがなぜ友人ではなく、隣にいる自分だったのか。なぜ、ボールが通るそのコースにちょうど自分の頭があったのであろうか。しかもボールは1個である。何十個もボールが飛んでいたなら、1個ぐらい自分に当たることもわかるのだが、飛んできたのはたった1個だ。なぜだ?なぜなんだ、これは?
そこで冷静になれば、出来事のそのすべてに法則性があり、必然的に起こっていると考えて、本質を探ることができる。たぶん、出来事を外から見ただけでは偶然にしか映らないだろう。ボールが当たったという事実だけをとらえて考えていると、しばらくすると、今度は犬の糞を踏むという不運に見舞われる。その時にまた新たなものが見えてくる。またしても、不運はとなりの友人ではなく、自分に起こったという事実だ。しかも連続で嫌なことが起こったことになる。すると、度重なる不幸の偶然は、実は偶然ではないことがわかってくる。不運は起こるべくして起こっており、2回も連続して起こるということは、さらなる不幸はまだ起こる可能性があるということにも気づくべきなのだ。そこで一旦、地に足を付けて考えてみることが必要となる。不幸の連続で気が立っている状況では、冷静な思考は働かず、正しい判断はできない。この不幸の連続は何なのか?なぜ自分によくないことが起こるのか?そういう考え方を展開することにより、物事の本質を見抜く眼を鍛えて、考えてみる習慣が必要なのだ。そうしないと、不幸の連鎖は永遠についてまわることになる。何かを変えないと何も変わらない。これが真理ではあるが、その前に「なぜ?」がわからないと、変えようにも何を変えたらいいのかがわからない。
なぜ?を追求すると見えてくる事がある。それは、「不運とは、だれがどういう目的において起こしているのか?」ということだ。アニキ哲学でもよく話しているからわかっていると思うが、「お知らせ」だよな。何のお知らせかと言えば、「イエローカード’」だ。そして、だれからのイエローカードかというと、人間の創造主だ。つまり、不運な出来事は創造主からのイエローカードなのだ。