人間の仕掛け(3/7) ~すべては必然~
人間の仕掛け(3/7) ~すべては必然~

人間の仕掛け(3/7) ~すべては必然~

 まず、よく考えてほしい。世の中の大前提として、「すべては必然」だということを理解すべきだ。ここが一番肝心なところで、まさに、すべての現象を語る上での原点だ。つまり、「この世に偶然なんてことはない」と考えるべきなのだ。偶然に何かが起こったと感じたなら、そこには必ず必然性がある。その必然性を探ることからはじめなければならない。天災や災害についての必然性は、話が反れて長くなるので、また後日ブログで話そう、今は省く。ここでは、個人的に起こる偶然の問題について、深掘りしてゆこう。まずは他人のことより自分事だよな。自分の人生を豊かにすることの方が先決だからだ。明日も食えない人が、世の中の恵まれない人に募金なんかしないだろう。それと同じだ。まずは、自分が食え!だ。これは世の摂理だ。贅沢しろとは言ってない。明日も食えて、風邪引かない程度の雨風を凌げてから、募金しろよということだ。話が逸れるから戻そう。まずは個人に起こる偶然の出来事だ。

 そして、この個人的な偶発的な出来事が起こった時に、ぜひ注意を払ってもらいたい。少し立ち止まってよく考えてほしいのだ。「なぜ今、この出来事が起こったのか?」と。そして、「人生なぜなぜ」を行ってほしい。例えば、満員電車で足を踏まれたとしよう。アニキの友人でも、過去に電車で足を踏まれた奴がいた。そのとき、足を踏んだ奴から、「なんで、俺が足を置こうとする場所に、足を置くんだ!」と怒られ、アニキの友人はすかさず、「すみません」と謝ったというエピソードを、過去ブログに紹介したことがあるのを覚えているだろうか?そう、どう考えてもこの話は理不尽なのだが、そこはさておいて、問題は、「なぜ、その友人がそんな奴に絡まれたのか?」というのが重要なのだ。電車で立っている隣の人には全く被害はない。そう、たまたまそんな理不尽な奴の隣に、アニキの友人が乗り合わせただけなのだが、これを偶然と片付けてしまってよいのだろうか。じゃあ反対に、これが必然と考えてよいのだろうか?生まれる前に、足を踏んだ奴と、足を踏まれるような約束をして生まれてきたのだろうか?

 するとそこから、人間に元々仕掛けられたとしか言いようがないしくみが浮き彫りになる。そのしくみとは、巧妙に人間に仕掛けられており、その目的は「魂の成長」なのだが、非常に手の込んだ仕掛けだ。魂を成長させるために、なぜそこまでして人間の創造主は細かい仕掛けを作ったのか?わざと分かりづらく、わざと苦労させるように作っていることが見えてくる。人生とはまさにこの仕掛けを見抜くことであり、悟りとは仕掛けを見抜いた人のことを言う。悟りとは、べつに行者が荒行で身につけるものではない。人間の本質さえわかっていれば、そのあたりのおばさんや兄チャンだって悟れる。そのためには、人間の本質について深くじっくりと考える必要がある。ここが哲学と結びつくのだ。