人間関係に悩み疲れ、その心労の末、宗教にはまる人も多い。実は、人間関係と宗教とは切っても切れない関係だ。宗教とは、まさに人間関係で悩み疲れた人の駆け込み寺である。人間関係がなぜよくないのかという問題に悩まされ続けた人達の集まりの場だ。しかし、ここでも教祖は人間関係の存在意義を明らかにするのではなく、血止めしかしない。そりゃそうだ、根本原因やしくみを教えてしまっては、あとは自分で乗り切ることができるので、その人にはもう宗教は必要なくなってしまうからだ。また信者に来てもらうために、血止めだけ行うのだ。まあ、アニキはいつも言うが、宗教は心の医者を謳っている存在だ。同じ悩みを抱える人達を集めて囲い込めば、そこには一種の共有感が生まれる。共有感、つまり共感のことだ。共感とは人間にとってはアドレナリンだ。共感とは、自分が相手を味方と認めた瞬間の感情で、共感によって楽しくなるように人間は作られているから、これも人間の原始機能である。他の生き物にはない感情だ。
共感について詳しくは、後日ブログ「原始機能『共感』」で話すが、ここでは宗教は共感を煽る集まりであり、それによって心が少し楽になるだけという認識が必要だと言いたいのだ。
まあしかし、宗教の場が楽しくて、そこで自分の心が楽になるならべつにいいが、それはただの趣味の世界だろう。趣味としての宗教なら、アニキは特に何も言わない。「どうぞ、趣味を楽しんでください」だ。しかし、宗教において、人間関係の改善を目的としていたならば、少し考え直した方がいい。自分のその悩みが解決したのかどうかに焦点を合わせて宗教を見てみる必要もあるということだ。一生そこの教義に縛られて生活したところでどうだろうか?教義の実行で心も忙しいから、生活は充実して心労も開放されているかもしれない。がしかし、宗教から離れて日常に戻った瞬間に、何も解決してないことに気づくんじゃないだろうか。だから、人は常に宗教に触れていないと不安になる。日常の人間関係の悩みを改善しようと宗教に参加したのに、宗教から離れると不安になるのだ。
自己啓発セミナーにも似たところがある。セミナーに関わっていると自分は思いっきりポジティブな人間になったつもりでいるのだが、現実生活に戻ると周りは今まで通りに自分に接してくるし、いじわるな奴はいじわるなままだから、またネガティブな自分に戻ってしまうのだ。だから、常にセミナー仲間と行動を共にして自分をポジティブに維持しておく必要があるのだ。共感の麻薬とでも言っておこうか。ここに問題があるものだから、自己啓発セミナーは廃れてしまったとアニキは理解している。
悪いが、アニキの考えは、宗教は人間関係からの逃避にすぎないということだ。人間関係は、創造主が人間に仕掛けた試練であり、冒頭でも話したが、人間関係の克服が生まれてきた目的である。だから、逃げること自体が無益であり、人生の修行そのものに逆行することになる。
ここに、人間関係の性質のひとつが隠されている。人間関係からは「逃げられない」ということだ。