判断基準というテーマが出たついでに、もう一つ例を挙げよう。彼女とファミレスに昼食を食べに行ったとしよう。席に着くやいなや、自分はいつも食べている日替わりランチを素早く頼んだ。彼女はというと、メニューを見ながら、何にしようかなとあれこれ悩んでいる。男は彼女のことを、「なんて、優柔不断なのだ」と思いがちで、反対に自分は、「なんて決断の早い人間なのだ」と勘違いする。しかしもっと深く見ろと言いたい。自分は素早くオーダーしたから「決断力の早い人間」で、彼女はオーダーで悩むから「優柔不断な人間」だと、簡単に考えてはならない。それじゃ、子供と同じだ。大人なら、本質を見抜く眼を持てと言いたい。物事を深く見ればわかるのだが、判断基準はそこではない。それは判断基準のとらえ方が間違っている。
アニキはいつも口癖のように、「物事は目で見るな、人の話は耳で聞くな」と。そこを深く読むならば、自分の判断基準は、「『ファミレスではすばやく注文を決める』のがかっこいいと思うこと」であり、彼女の判断基準は「『メニューを見ながら、あれこれ悩んで楽しむこと』がよいと思うこと」だ。ここでの問題は、それぞれの哲学の読み違えと、自分の信念を相手にも押しつけているという点だ。人間はそれぞれ生きる哲学が異なる。それを生き様というのだが、生き様は皆違う。かっこいいと思う基準も当然自分と同じと考えてしまいがちなのだが、そこは全く違うのだ。嗜好が同じだからといっても、すべてが同じではない。物事の本質を見抜くことについては、普段から物事についてよく考える癖をつけて、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということを熟考する習慣がほしい。
話を元に戻そう。どんな人にも必ず自分なりの判断基準はある。ただそれが浅はかな基準なのか、緻密な基準なのか、というだけの話だ。判断基準が甘いかどうかはこの際問題ではない。その自分なりの判断基準を使って、日常の物事を判断してゆくのだが、それだけでは解決できない問題も起こる。それは、どちらも重要だという判定基準だ。自分にとって似通った価値感の物事が目の前に現れた場合、どっちかを選ばなければならないシチュエーションに出くわす。どっちも重要だ、どっちも捨てがたいという甲乙付けがたい場面である。その物事に優先順位を付けなければならない。その場合の判定基準だ。
アニキ哲学では、二つの重要ポイントがあって、両方が重要だという場合、またはどちらもおろそかにできない場合に、アニキは「上位概念」という基準を使う。上位概念こそ選択決断の時の判定基準であり、この概念を理解していないと人生における重要な選択時に、誤ってしまうことになる。言葉にすれば大げさだが、そんなことは皆、普段からやっている。特に、経験と勘がものを言う成熟したサラリーマンはこの概念が洗練されていて、実は無意識のうちに使っているのだ。