人生にはいろんなことが起こる。くだらないことから重要なことまで、その幅は広い。それらのひとつひとつについて、人はいちいち決定を下している。どんなめんどくさがりの人間でも、その都度まめに決定を下しているのだ。大概の人はそのときの都合や気分で、物事を判断し決定を下している。それで何とかなっているからそうしているのだろうが、実は、どんなにぐうたらな人間でも判断基準は持っている。そう、のび太だって持っている。それは常に自分の中で基準を決めていて、その基準で判断して決めていることに気づいていないだけのことだ。生きる上で、判断基準というものは不可欠なのである。
判断の基準は人それぞれ違う。気まぐれで決めているという場合でも、「好き嫌い」という判断基準を使っていたり、「楽な方」という判断基準を使ったりしている。まあ、普通の人の判断基準とはその程度のものだが、基準がないわけではない。ちゃんととある。その場当たり的な判断や決定も、その人の中には判断基準は備わっている。ただ、その基準が弱いだけで、その人自身が自分をよく分析してないからはっきりしないだけの話である。だから、他人にはそれがただの気まぐれに見えるだけなのだ。それで他人から、「なぜその決定をしたのか?」と問われても、決定を下した本人は深い考えがあってやってないものだから、答えられない。しかし、よく掘り下げてゆけば、自分の決定には常に法則性があることに気がつく。
物事を好き嫌いで判断する人や楽な方を選ぶ人、さらには面白そうな方を選ぶ人、常に周りの評価を重視した多数派を選ぶ人など様々存在するのだが、それは自分では意識していないのだ。無意識のうちに判断してしまうのだが、その選択根拠は常に一貫性がある。楽したい人はいつも楽な方を無意識に選ぶ。何かに啓発されて、無理に反対の選択をしたとしても、それはものすごいストレスとなり、やっぱり次からは元の判断基準に戻ってしまうのだ。
アニキは何が言いたいのかというと、人には必ず判断基準が備わっていて、それで物事をジャッジしているのだ。つまり、その都度いちいち判断しているわけではなく、その基準を使う。実は、この基準こそが哲学である。哲学とは物事の判断基準だと、何度も話していると思う。皆、自分の哲学を持って生きているのだが、その哲学がどうも甘いから、くだらない人間に映ってしまう。せっかく哲学を持っているのに、もったいない限りである。
「楽な方を選ぶ」という判断基準があるとしよう。意識していなくても、それが哲学ということになり、それが自分の信念に進化する。「楽な方を選ぶ」というのが信念の人とは、果たしてかっこいいだろうか?ということだ。 どんな人にも判断基準は必ずある。子供でも赤ちゃんでもだ。その前提で相手をじっと観察すると、見えてくるものがある。それは相手のこだわりだ。相手がどこにこだわっているのかが見えてくる。相手のこだわりを知ることは、人間関係を自由に操る上で、大きなアドバンテージなのだ。