社員を骨抜きにすることは、日本企業にとってとても重要だ。社員教育もこの点を重要視しているという。よく外部委託される社員研修などは、レベルを下げてくれとの依頼を人事から受けるという。あまりレベルの高い研修を行うと、社員に気づきが起こり、会社を辞めてしまうらしいのだ。だから、会社の人事は外部の社員教育会社に対して、「レベルを下げてお願いします」という風に研修を依頼するという。それを受けた教育会社は、まあそこそこのレベルで研修を行うのだが、それを受講した社員はいまひとつ感を受ける。で、あまり大した研修じゃないな、この教育会社もいまいちだなというだけで終わってしまう。社員教育なるものは、社員のやる気を保てればよいだけで、能力を上げるためのものではない。アニキ哲学における「物事の本質を見極めろ」のひとつだ。社員教育における本質とは、ここにある。だから社員教育は、「それを受けることを選ばれた者」という部分を会社は強調したいだけであり、研修の中身などは最初から空っぽで得るものなどない。下手に世の中を悟ってしまって、会社を辞めたり、会社に楯突いたりするからだ。会社は社員に武器なんか持たせるようなことはしないのだ。ここにも、サラリーマンと奴隷の共通点がある。
話が逸れたので戻そう。会社の意図はこういうしくみになっている。若い頃はバリバリ働けるから、安い給料で馬車馬のごとく働かせる。会社とは洗脳組織だから、他に目が向かないように上司や先輩はしっかりと「仕事道」を教え込んでゆく。これはちょっとおかしいぞと気付くのが、40~50才ぐらいだ。こんなに頑張ってるのに給料が上がらないとか、出世しないとかという疑問が湧く。そうだ、会社とは上に行けば行くほど、好き嫌いがその選定基準となるから、いくら仕事ができても、上に気に入られなければ待遇はよくならない。ここに気付くのもちょうど50歳前後だ。会社の本当のしくみに気がつき、「こりゃまずい」となるが、時すでに遅しだ。もうその時点では、その会社以外では通用しないことがわかる。骨抜きにされているのだから、もう、その船を下りることはできない。
いいか、会社は初めから船から下りれないように洗脳してゆく。50歳で洗脳が解けたとしても、その時点ではどうすることもできない。転職しようにも、自己PR文すら作成することができない。いざペンを持っても何も書けないからだ。会社は書けないように仕向けていたのだ。いざ書こうにも、活字にできる技能は与えられてないから、結局は「部長をやってました」とか、「課長をやってました」とか、その程度だ。肩書だけはあるものの、実際アピールする能力自体がないから、転職の面接でも、「見積もり書が作れます」とか、「報告書が書けます」とか「マネジメントやってました」程度の悲しい話しか言えない。まさに修羅の道だったのだ。
このように、従業員に能力を与えず骨抜きにすることを、サラリーマン輪廻における「骨抜き修羅道」と呼ぶ。