まずは儀式的な意味からいこう。アニキはよく、社会人になるということは「嵐の大海に小舟でこぎ出すこと」と言っている。この例えは、生き馬の目を抜くようなプロ集団の中に、ハナタレ小僧が入っていくということだ。自分の鼻水が垂れていることすら気付かないハナタレが、プロがひしめく社会に出て行くのだ。すぐにカモにされるのが目に見えている。だから、一旦裸になり心を引き締めろということだ。鼻水を垂らしていることに気付かないということは、垂れた鼻水が衣服に付いていることにも気付かないでいるということだ。アニキがよく言う「ぼくちん」の定義のひとつなのだが、要は自分のことを自分でできてない社会人を指す。だからまず、「今まで着ていたものをまず脱げ」ということで、言わば「鼻水が着いた服を脱げ」という意味なのだ。これが儀式的意味だ。
次に精神的な意味だ。「恥ずかしい」という感情を封印する目的がある。人前で肌になるのは恥ずかしいものだ。それを乗り越えさせる目的がある。心のストッパー-を外させることを第一義としている。これからはプロがひしめく荒海に出て行くのに、「裸になる」ということぐらい屁でもないという強い心を作る。そして昨日も話したが、想定外の問題に対して備える心構えを作る。これは経験でしか身につかないから、いきなり新人歓迎会という初っぱなのこの時点からすでに教育が始まっているのだ。恥ずかしさを取り払う心と想定外の問題に対して動じない精神を作る。
次に営業的な意味合いだが、アニキはこれが最も大事だと考えている。ここで考えなければならないのは、「なぜ裸なのか?」だ。想定外の問題なら他にあるだろう。儀式的に衣服を脱ぐということだって、取って付けたような話だ。脱ぐ必要はないではないか?ということだ。精神的な意味としての「裸になる」だって、別に他に手段はありそうなものだ。
そう、だから営業的な意味合いこそが脱ぐことの真の理由である。サラリーマンになるということは、学生から社会人になることだ。そんなことは当たり前だな。で、例えば一流企業に入るとする。一流という定義は難しいが、就職するのが難しい大手企業と考えてくれ。名のある大手企業は人事の目も肥えているから、スペックの高い学生を獲得するはずだ。だから、学生は目指す一流企業のためにいろいろ頑張ってスペックを上げる。学歴だったり、語学だったり、海外バックパッカーだったりと、自分を企業がほしがる学生像に仕上げてゆく。しかし、実際に入社したら、そんなスペックのほとんどはいらない。以前のブログ「技能と能力」でも話したが、スペックとは入社するまでの「ただの値札」だ。入社したらいらないのだ。高いワイシャツ買ったからと、いつまでも値札付けたままで会社行く奴はいないだろう。値札は買ったらすぐ捨てる、それと同じだ。