アニキがここで話題とする「変人論」とは、巷にいる「本物の変人」のことではない。その変人のことを期待しているなら、この先を読んでも意味がない。アニキが言う変人とは、一見巷の変人風ではあるものの、その根底にはしっかりとした自分の哲学を持っているという哲学の道にいる人間達である。「あいつ少し変だ」というところの変人である。そのことについて話題にしたいと思う。
まず、多くの人が哲学者から連相されることは、まず「変人」だ。過去の偉大な哲学者は変人だらけだ。それは偉人も街の哲学者も変わりはない。日常の他愛もないことを深く追求してゆくという行為は、どうしても変に映るのだ。アニキが学生の頃も哲学好きは変人扱いされた。アニキも当時は、哲学などは変人の領域であり、哲学好きは変人という偏見を持っていた。そして哲学好きに共通していたことは、暗い性格、運動嫌い、難しい本ばかり読む読書家、細かい雑学の知識が豊富、理解不能なルーティーンを持ち、食べ物の好き嫌いが多いなど、かなりのマイナスの特徴を持つ。さらに、性格が神経質な割に他人には無神経に振る舞うというおまけが付いていたからなおさらだ。アニキはものすごい偏見を持っていた。哲学好きは頭が良かったのだろう。一般の人が考える奥をさらに考えていたのだから。人生の意義や生きる価値、なぜ人は生まれてくるのかなど若者には似つかわしくないジメジメしたテーマだ。スポーツや勉強に打ち込んでいる連中や、オンナのケツを追いかけまわしていたアニキ達や、お笑い好きテレビ好きな子どもらは、到底そんな深いことは考えない。普通に考えないことを考えるから、変人として見られるのだ。人生の意義なんてことを、子供の頃から考えているから頭がおかしいと思われてしまう。諸君の周りにもこんな奴いただろう。しかし、彼らから見れば、我々が変人なのである。なぜ、人生の意義や生きる意味などを考えないのか?と。
しかし、人生は順風満帆ではない。学生の頃はスパースターでも、社会人になれば凡人というのがほとんどだろう。それが人生のギャップで、普通にしているとそこに落っこちてしまう。ギャップに落ちると、日常生活ではそこからなかなか抜け出せない。なぜなら、人の内面の話であるから、他人からはその状況が全く見えない。心が鎖に絡まっているのだ。そこから引きずり出してくれる物が必ず要るのだが、それが師匠だったり、本であったりする。
だが、変人と呼ばれる哲学好きな連中は、そのことを知っていて事前に準備している。人生には落とし穴があるだとか、理念や信念がないとうまくいかないだとかを常に研究しているから、彼らにとっては想定内だ。「ほら来た」とばかりに対策を講じるから、何でもないのだ。皆が悩んでいるところで平然としているその姿、そこも変人に映るゆえんである。