物事をうまく進めようと思ったら、そこには必ず自分の信者がいる。この世に、ひとりでできることなどひとつもない。人は、生まれた瞬間から、だれかに頼らないと生きてゆけない生き物である。創造主はそういう風に人間を作った。信者を多く作ることが人生のカギを握ることになる。生き物は出生の瞬間から信者と関わることになる。いちいち説明は要らないと思うが、人間にとっての最初の信者は母親である。
母親は、一回につき1体の子どもしか産まない。元々人間が、生まれた瞬間から誰の助けも必要ないのであれば、母親は1回で大量の子どもを産むことができるはずだ。しかも、生まれた瞬間から体温が奪われないように、体毛も最初から生えておいて毛むくじゃらだ。大量の子どもを産むということを想像しただけでも気持ち悪いのだが、それは魚などをイメージしてもらえばよいだろう。産み落とされた子どもは、一斉にどこかへ向かって動きはじめる。それはまるで、亀の子どもが海を目指して一目散に進むようなイメージだ。そして、動き出した子ども達は、車にひかれたり、川に落ちたりしてその数が徐々に減ってゆく。最終的に誰かに拾ってもらえる数は少数だ。
産み落とされる数量とは、その生き物での最終の生存率を表している。産み落とされる数が多い生き物では、それだけ最終的に生きのこる可能性は低いということなのだ。だから人間は1回で一人しか生まれない。それは、生存率というより、母親という産み落とした存在がすぐそばにいて、生んだ子どもをすぐに援助できるという体制が整っているのだ。そこには、信頼できる存在が最初からボディーガートとして存在している。このシステムが最初からあるのが人間だ。まあ、大概のほ乳類には存在しているシステムだが、すぐ近くに天敵がいるほ乳類は、やはり数匹の個体を産む。
人間だけが1個体だけで産み落とされるのは、目に見える「絶対天敵」がいないからだ。絶対天敵とは、過去ブログ「アニキの進化論」でも話したが、カエルにとってのヘビのように明かな敵対関係だ。人間にはそんな具体的な天敵は存在しない。だから、1個体で生まれてくる。母親という子どもにとって最も信頼できる人がそこにいるわけだから、安心して生まれてくることができる。母親は子どもにとっての信者なのである。 人間は生まれながらにして信者を持っているのだ。どんなに仲間外れにされても、友達が一人もいなくても、ひとり必ず信者を持っている。母という信者がいるのだ。母親とは、無償の愛の代名詞だ。子どもが感謝の気持ちを表さなくても、全く意に介さない。見返りなどはどうでもよく、ただひたすら子どものために尽くす生き物だ。母親は子どもを信頼してはいないが、子どもは母親に対しては多大な信頼を置く。口では決して出さないが、行動ではすべて母親信頼の上に成り立っている。子どもは、母親を自分の信者だということを決して疑わないのだ。