エセ親分の見分け方について、もう一つだけ付け加えておこう。エセ親分かどうかは、周りには心底ついて行こうという人間がいるかどうかを見ればいい。それは、ざっくばらんに話してみればいい。アニキ哲学の読者なら判別は簡単だろう。人生をどう考えているか、自分の行動軸があるか、それに基づいて行動しているか。これだけ見ればいい。エセ子分は、エセ親分ほどその演技が堂に入ってないから、すぐにボロが出る。要は、同じような上っ面だけの輩の中に身を置いているにすぎないから、エセ親分を利用できる間のみそこに居るだけだ。親分が苦境に立って将来が危ぶまれた瞬間に、他の親分のところへ鞍替えだ。子分がそんな調子だから、エセ親分の全盛期は長くは続かない。仕事ができるという評判も、数十年が経過するにつれて、だんだんとメッキがはがれてくる。エセ親分は賞味期限付きと言えよう。
だいぶ話が逸れてしまったので、元に戻そう。アニキも若い頃、くだらんエセ親分に着いていってしまい、かなり時間を浪費してしまったので、後進に対して気を揉むのだ。若い時、特に社会人の成りはじめや、転勤などで右も左もわからない孤独な状態では、エセ親分のその優しさに引っかかりやすいからだ。
では、親分とまではいかないが、普通の上司や先輩サラリーマンの優しさについて触れてゆこう。例えば自分が、仕事上において厳しいことを部下や後輩に言うと、「優しくないな、厳しいな」みたいなことを上司や同僚から言われることがよくある。「それは言い方の問題なのか、内容の問題なのか、どっちだ?」と尋ねると、「両方だ」みたいな答えが返ってくる。指摘した本人達も、よく分かってないのだろう。アニキから厳しく言われた相手は、ポーズでも、うなだれて落ち込んだ様子するのが普通だろう。その落ち込んだ姿を見て、同情してそう言っているにすぎない。これはただの外野発言だ。
アニキは、「言い方」も「内容」も熟考した結果として相手にぶつけているつもりだ。ポイントは、相手を本当に思いやる内容だろうか、相手が受け取れるギリギリの内容だろうか、このタイミングでよいだろうか、などだ。言い方に関しても、諭す方がよいか、激怒したパフォーマンスを見せた方がよいか、だ。そこには、相手の性格とこちらの怒りのレベルを同時に伝えたいという想いがあり、考えての言い方なのだ。それは、厳しいことを言う時には、その効果を最大限に引き出さなければならないからだ。
さらに、厳しいことを言う時に考えねばならないのは、言った相手が受け止めるだけの器があるかどうかだ。相手の心を折ってしまっては元も子もない。折れるところのギリギリを狙うのだ。過去ブログ「プレッシャーだけが人を育てる」でも話したと思うが、上司の仕事は、「部下が耐えられるプレッシャーの大きさを見ること」だ。部下がどれだけのプレッシャーに耐えられるかを上司は熟知していなければならない。上司の一番大事な仕事とは、「部下のプレッシャー許容量を把握すること」だ。まず、これが部下教育だ。これを置いて、教育や指導は始まらない。 アニキは何が言いたいのか。「耐えられるギリギリのプレッシャーを与えることが、優しさだ」ということだ。そして、外野発言する奴らも優しさの本質を理解していない。つまり、甘さと優しさがわかってないのだ。わかっていれば、上司に罵倒された部下をこっそりと捕まえて、罵倒の意味や上司の信念などをアドバイスしてあげればいい。これが、先輩や同僚の優しさだ。同情することではない。