「優しさ」と「甘さ」(2/9) ~本当の優しさ~
「優しさ」と「甘さ」(2/9) ~本当の優しさ~

「優しさ」と「甘さ」(2/9) ~本当の優しさ~

 能書きをこいてしまった、話を戻そう。優しさと甘さの定義だったな。

 人に対して何かすることにより、その結果、物事がよい方向に進めば、それは「優しさ」だ。一方、それで物事が悪い方向へ進む場合、「甘さ」となる。甘さは物事が悪い方向へ進むだけではなく、弊害を生んでしまう場合も含む。これがアニキ哲学おける定義だ。あまりにも抽象的すぎてわかりづらいな。それをこれから説明してゆこう。

 日本語には、「甘やかす」という言葉がある。例えば、爺さんが孫にお金品をプレゼントした場合を想像してもらいたい。これは、行為をする爺さん側から見れば、甘やかしているつもりは毛頭ない。孫に喜んでもらいたい、孫を喜ばしたいという優しさから出た行為のはずだ。しかし、その行為は、子どもの親から見た場合、甘やかしていると見えてしまう。親の気持ちとしては、子どもに何の理由もなしにお金をあげるのは良くないと考える。ここに優しさと甘さの落とし穴がある。

 行為をしてあげた相手が喜ぶことは「甘さ」だ。行為をしてあげた相手が逆に喜ばないことが「優しさ」である。自分のやろうとしたことが、優しさなのか甘さなのか迷ったら、相手が喜ぶか嫌がるかで判断するのもひとつだ。わかってるとは思うが、ここで注意しておかねばならないのは、「そこに相手を思いやる優しい気持ちがあるか」ということが重要だ。嫌がる行為が優しさだと捉えて、本当にいやがることをするのはお門違いだ。そんなことで反論するガキはアニキブログ読者の中にはいないと思うが、とりあえず一言付け加えておきたい。

 相手が嫌がることをすると、そこには「嫌われてしまう」というリスクが伴う。だが、そんなリスクより、相手の今後を案じてしまうから、あえて厳しいことを言う。今、相手に嫌われるより、今後が心配なのだ。だから、この場合上位概念は「嫌なことを言う」が上なのだ。これが優しさの原点だ。だから、本当に優しさとはこの場合、「じいちゃん、お金がほしい」と孫が言ってきたのなら、「ダメだ」とむげに突っぱねるのが正解だ。ジジイは孫の将来を考えれば、おいそれとはお金なんか与えない。自分がそう育ってきたはずなのに、立場が変わると対応も変わるのか、人生の終盤にさしかかるその年齢になっても、優しさと甘さの違いがわかってないのはどうかとも思う。又は、わかっていても「まあいいか」で片付けているのかもしれない。その場合はもっと悪い。無関心という大罪を犯しているからだ。「今後はどうなろうと、あとは親に任せてしまえ」という無関心さだ。

 この「無関心という大罪」については非常に重要なテーマであり、長くなってしまうので、後日ブログで話そう。要は、この例だとよくわかると思うのだが、自分自身が当事者となる事例では、優しさというものはなかなか実践できてないのが実情だ。

 今の時代、なかなか本当の優しさ実践することができない。相手に嫌われてしまうというリスクを冒すことが怖いのだ。だから、友達が間違った方向へ向かっていても注意すらできない。本当に友達のことを考えるなら、間違った方向へ向かっているのであれば、引きずってでも阻止するはずなのだが、それをするのはなかなか現代人にはハードルが高い。