アニキ哲学の柱として、人間は「魂」「脳」「カラダ」という三つのパーツで構成されているということを提唱している。以前のブログで話してきたが、覚えているだろうか。「魂」は「魂の謎」で、「脳」は「脳の謎」でそれぞれ説明してきた。残るは「カラダ」だな。今回は三部作の最終である「カラダ」について話そう。
表題を見ての通り、「カラダ」は「カラダの謎」ではなく、「乗り物を乗りこなせ」になっている。これには意味がある。実は、「カラダ」には謎はない。「カラダはただの身体」で、解剖やなんかしてすべて謎は科学的にかなり証明されている。だから、カラダには謎はなく、謎があるのはカラダを支配している「脳」の方だ。だから、「カラダ」は単に「魂の入れ物」であり、アニキ哲学ではただの乗り物と言っている。だから、いかにこいつを乗りこなすかが問題となるわけだ。前振りはこのくらいにして、本題に入ろう。
「自分とは何か?」これは古より哲学の命題だが、その答えは人により様々だ。それを考えさせるのも人生の目的のひとつだからだ。鏡に自分の姿を写して、よく見てほしい。「自分とは何か」がわかる。一見、自分とはその姿そのものと思うかもしれないが、そこに映ってるのは殻だ。ただの入れ物だ。自分とはその中身である。ここには異論はないな。当たり前だという声も聞こえそうだ。そう、中身が考えて行動を起こす。姿というカラが考えるわけではない。この乗り物の奥で、操縦している奴がいる。感覚的には、まあ、そんなところだ。
では、どのようなしくみでこの乗り物に自分は乗っているのだろうか?これを考えたことはあるだろうか?できれば、イケメンや美人で天才的な頭脳やスポーツ万能な乗り物がいいよな。でも、現実はそうじゃない。最初から不具合のある乗り物に乗ってる人だっている。動き始めてすぐに、故障する乗り物もある。これが車だったら大変だ。ディーラーに連絡したら、クレームで即、取り替えてくれる。しかし、俺たちの場合、そうはいかない。クレームが全くきかないから、与えられた乗り物で一生過ごすことになる。製造元である「親」に言ってもはじまらない。親だって、製造マニュアルなんてないから、クレームに取り合ってもらえないし、なぜそうなったのかもわからない。自動車なら、メーカーが二度と同じ不具合を起こさないように、なぜなぜ分析などで徹底的に原因分析するからよいが、人間の場合は何も施しようがないのだ。トヨタなどの一流自動車メーカーなんか、不具合対応について偉そうなこと言ってるが、「じゃあ、人間に応用してみろよ」と言ってみたくなる。そう、人間には何もできないのだ。
まあ余談はこのくらいにしておいて、要するに人間はどうやって自分のカラダという乗り物を選んだのかということだ。大阪風に言えば、それなんなん?だ。