そう、日本人は「道の精神」が重要だ。だから、いくら作業が完璧にできても、この「道の精神」が理解できないと応用が利かないから、いつまでも説教されるわけで、大変つらい。しかし日本人の場合、日々のあらゆる行動において、このような細かいことを子供の頃より毎日言われ続けるから、その考え方が段段と習慣づいてくる。すべての作業の手順と注意点を覚えようとすると、膨大な項目があるのだが、考え方が身につくと応用で対処できるようになるので、簡単になってくる。これが日本人の「下積み重視の哲学」だ。
そう、日本人が下積み経験をしてきたかどうかを重視するのは、「道の精神」を学んできたかどうかを見たいのだ。下積みを経験していない人間は、「道の精神」の理解ができておらず、考え方のベースができていないから、作業がうわべがちになり、何をさせても、そこに足りなさを感じるのだ。そして他の作業にも応用が利かないから、ついつい小言を言いたくなってしまうのだ。
そう、だから「道の精神」を学んできた者かどうかを見極める手段として、下積み経験の有無が重要になってくるのだ。これが、日本人にとってとても重要な精神哲学であり、時代は変わってもなお、下積み経験が重要視される。それが社会において、日本人の好む「ツーカーの概念」にも繋がる。相手の心の先読みだ。「道の精神」は、相手を先読みできる。日本人は「1を聞いて10を知る」や「あうんの呼吸」「思いやりや配慮」という目に見えない概念を重視する。これが、日本の会社の従業員においては必須の能力なのであり、日本企業が外人を雇わない大きな理由の一つはここにある。
では、この「道の精神」はどこからやってきたのだろうか。日本古来の考え方なのであろうか。実は、一般的には武士道からの考え方といわれている。武士道は日本の宗教とも揶揄される行動哲学だ。恥の概念や誇りなどはここから来ている。いや、アニキが思うに、それ以前からの日本人の気質ではないかとも思う。あくまで武士道は、それまでの日本人のあるべき姿を体系だててまとめたものにすぎない。アニキはまだ、この起源についての調査はまだできていないが、古くより、日本人の教育の中にすでに折り込み済みの精神哲学であったはずだ。